【聲の形】「聴覚障害の彼女が欲しい」という感想を発端とした倫理的問題に関する議論。

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聲の形を発端とした倫理的議論

映画『聲の形』は、聴覚の障害によっていじめを受けるようになった少女と、彼女のいじめの中心人物となったことが原因で周囲に切り捨てられ孤独になっていく少年の2人の触れ合いを中心に展開する物語だが、この作品に関する感想を発端として、とあるTwitterユーザーが疑問を投げかけたことから、ユーザーの間で議論が巻き起こる。

@tanaka_tooru_ 2017-05-08
聲の形を見て「耳の聞こえない彼女が欲しいと思いました」という感想を持つことは倫理的に問題なのだろうか。仮に批判する場合、何を根拠に批判が成り立つのだろうか。

聴覚に障害があったからこそ心を通い合わせることができた→聴覚障害の彼女が欲しい
直観的に問題がある気がするけど説明できない

「聴覚障碍者に失礼」という批判が考えられる。
「恵まれない身体に生まれても頑張っている聴覚障碍者を健常者が軽い気持ちでうらやましがる」という意味だとすれば、それは「障碍者は可哀想」が根底にあるから現代的(?)価値観(障碍者は可哀想な存在ではない)と衝突する

「障碍者は可哀想ではない」の前提を捨てて「障碍者は可哀想ではないが我々は援助すべき」という前提をとろうかなと思ったけどこの前提は矛盾してるな

聴覚障碍者の女性に対して「聴覚障碍者とお付き合いしたかったんです」と発言するのは問題という意見があった。個人が不愉快に感じることと倫理的に問題とは距離があるように思われる。

「マイナスなことを他人に求める」ことが鍵なのかな。
「聴覚障碍がマイナスかどうか」ということは一旦置いておくべきなのか。


reaction

@tanaka_tooru_
「スリムの体形の彼女が欲しい」が問題がないことから「耳の聞こえない彼女が欲しい」も問題がない、という意見があった。しかし、「耳の聞こえない彼女が欲しい」を公言するのはよくない気がするのはなぜだろう。


▲スリムな人より耳の聞こえない人の人数がより少なく、理解が及んでいないため、言及することで当事者に何らかのダメージを与えてしまうリスクがあり、憚られるからかな〜〜と思います。


@tanaka_tooru_
▲聴覚障碍者に「聴覚障碍者のことが好きです。彼女にしたいです」と言うことはダメージを与えると想定した場合、「障碍者は可哀想な存在だから健常者が軽い気持ちで良い特徴だなと思ってはいけない」という前提を持つ必要があります。「障碍者は可哀想」という前提は現代では受け入れがたいと思います。


▲「障害者は可哀想」とまでは言いませんが、健常者に比べて「社会活動を行うにあたり不利な点がある。=大多数の人から見た欠点である。」と考えることはできませんか?


▲▲外見は化粧やら整形やら運動やらで変えられます。
性格も言動である程度作れます。
障害は生来のものか、事故や病気など、その人の意思に関係のないものです。
そこに差があります。


@tanaka_tooru_
▲「出生後変えられない身体的特徴を好むのはよくない」だと
「高身長のスラッとした女性と付き合いたい」もよくないことになってしまうので決め手にかけるかなと思います。


▲では、それに伴う社会的経済的ハンデの大きさに注目するといいかと思います。


@tanaka_tooru_
▲「社会的経済的ハンデが大きい人を彼女にしたい」をよくないとすると「恵まれない家庭に生まれても必死に努力した人は芯が強いから彼女にしたい」もよくないことになってしまうと思います。やはり決め手にかけると思います。


▲端的に言えば、障がいを好みという、と、例にあげられたものに違いがあるとすれば、今現在公で受け入れられているかいなかになるのではないでしょうか。


@tanaka_tooru_
▲発言が良いか悪いかはその時の社会が決めるという理解でよろしいでしょうか?


「耳の聞こえない彼女が欲しい」「スリムの体形の彼女が欲しい」どちらの発言も不快さを感じるのは確かなんだよなぁ…許される許されない?が出てくるのは「好きになるのそこなんだ」っていう部分の内容の重さ…なんだろうか…


個人的な意見だけど「聞こえないこと」は「背の小さい」とか「ぽっちゃりした」とかと並べるよりも「韓国語を話す韓国人」「アメリカで育ったアメリカ人」とかと並べるほうが自然だと思う。

英語とアメリカの文化が大好きだからアメリカ人と付き合いたい!なら許されるけど、英語は喋れないしずっと日本に住みたいけどあの映画の誰々がカッコよかったからアメリカ人と付き合いたい!と言ったら「?」となるか冗談にしか聞こえないのと同じな気がする。

だから聲の形だけ見て他の彼女の文化や言語に関する知識は何も無く言ってるとなると、批判されてもおかしくないんじゃないだろうか…


大事なのは「耳が聞こえる」「耳が聞こえない」という所ではない。
その彼女が「たまたま」聴覚障害者だっただけのこと。
耳が聞こえないから嫌い。耳が聞こえないから好き。っておかしくない?


私は健常者障碍者に関わらず、身体的特徴のみをピックアップして「異性の好み」として挙げる事は少し不愉快だと感じます。身体的特徴を愛でる事が最優先事項ならば、性格的相性は問わないと思われるからです。相手への精神的な尊重に欠けるので公に発言すべきでないと考えます。


そう思うのは自由だし、それを聞いて共感するのも嫌いになるのも自由だよ。 倫理観ではなく感情の問題であって、恋愛において何より優先されること。 人の好き嫌いって理屈じゃないことが多いんだよ。


「今の彼女を聴覚障害にしたい」とかなら問題かもしれないけど、聴覚障害者の彼女がほしいってのはそれこそ個人の勝手では?


自分に依存して(好きになって)くれて、自分を振りそうになく(障害者だから他の男が近寄りにくいだろう)、なおかつ美人の彼女が欲しい。『聲の形』を見て耳の聞こえない彼女が欲しいと思ったのなら、根底にあるのはこのへんじゃないでしょうか。


「背の低い彼女が欲しい」「色白の彼氏が欲しい」並みに普通に言えるようになることこそ真のバリアフリーなのかもしれない


「障害は個性」と言われ始めてまださっぱり浸透してないんだけど、もし本当に障害を個性として認識する社会が確立されるのであれば(つまり差別がなくなるのであれば)、「耳の聞こえない彼女がほしい」が「巨乳の彼女がほしい」と同列に認識される日が来るかもしれないね。それまではまだ言うべきことではないね。

いずれにしても、上品な物言いとは永久に認識されないでしょうね。


俺は外見とか身体的特徴も恋愛には重要な要素だとは思ってる方だけど、1つの属性をあげつらって必須要件だと受け取れる発言だと、それぞれの人格面で起きる軋轢とか想定してなさそうで「お前、恋愛に夢見すぎだろ…薄っぺらいな…」とは思うよね。希望要件程度なら別に抱くのに倫理的な問題もないと思う。


「耳の聞こえない彼女が欲しい」が許されるなら、反対に「耳の聞こえない彼女は嫌だ」も許されるべきだろうが、実際それを口にしたら人格が疑われますよね? なので自分的には、それらを思ってても、心の中にしまっておくべきだと思います。


高身長がコンプレックスな女性に「僕より背の高い女性と付き合いたかったんです」と言ったら怒ると思うので、相手を傷つけるかどうかは相手次第としか言えない。 んで、聴覚障害者と付き合いたい!が問題かどうかは、その根拠によるんじゃないかなぁ。たとえば聴覚障害の男性が「聴覚障害の彼女ほしー」と言ったらあんまり違和感なくない?それはたぶん「同じ目線でわかりあえる相手が欲しいのだろう」と想像できるから。でも「聲の形を見て障害者の彼女欲しくなった」は、ぶっちゃけ見下す相手が欲しいように聞こえてしまう。

そもそも聲の形は、「障害があったから心が通った」という筋ではない。聴覚障碍者=硝子=純粋でまじめ=わかってくれる、みたいに捉えているところがまず短絡的。植野や佐原の耳が聞こえなくなったとして、硝子と同じ展開になるか?ならんでしょ。逆に、硝子が健常者だとしても、将也が将也であり硝子が硝子であれば、2人は心を通わせただろう。

【聲の形】「聴覚障害の彼女が欲しい」という感想を発端とした倫理的問題に関する議論。” に対して3件のコメントがあります。

  1. 匿名 より:

    最後の一文が最高にクールだな。

  2. たかし より:

    37歳の妻は5年ほど前に、突発性難聴になり、 5年くらい前から両耳に補聴器をしています。
    補聴器をしても、会話など聞こえ辛いようです。
    妻は、聞こえが悪くなってから、些細な事で怒ったり、イライラしている事が多く、喧嘩になる事も有ります。
    私的に、なぜ聴覚障害者のかのじょが欲しいのか分かりません。

  3. 匿名 より:

    可哀想だという意見があるけど、可哀想なのは障害者のみではない。障害の有無に関わらず、誰もがコンプレックスを持っている可能性があるということを忘れてはいけない。
    逆に、障害を持っていても幸せに過ごしている人も存在する。耳が不自由な事は間違いなく不便な事だが、考え方によっては「耳が聞こえないからこそできたこともある」と前向きに捉えることができる。

    聴覚障害によってどれだけ苦しんでいるか、どれほど辛いかは本人の他誰も知る由もない事なのにも関わらず、第三者が分かったふりして「可哀想な人だ」と決めつける過剰なお節介が最も見苦しい非道な行為だと感じた。

    これを書いている自分自身も障害者だが、障害を前向きに捉えようとする事の何が悪いのか分からない。むしろ「障害はマイナスな事であると捉えるべきだ」という思想が優生思想のように感じる。
    「聴覚障害者の彼女が欲しいと言う事は見下しだ」という発言はれっきとした障害者差別である。聴覚障害者という言葉を付けなくて「彼女が欲しい」と言うのが見下しにならないのであれば、「聴覚障害者の彼女が欲しい」を見下しだと捉えるのは自分の中で聴覚障害者を健常者より下に見ている証拠である。私はこのような擁護に見せかけた見下しが大嫌いだ。

    確かに不便が生じているから障害を持っているとなり配慮が必要となるが、それは「障害者は不便な立場“だと考えなければならない”」ということを決して意味しない。
    合理的配慮は必要とされるが、情緒的な配慮は必ずしも必要とされるとは限らない。可哀想だと見られるのが嫌だと感じる障害者だっているだろう。

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